中途半端だと生きづらい
双極性障害になってから半月。
精神障害者手帳っていうのは1級・2級・3級があって、簡単に言えば、1級が重度で常に誰かの援助が必要で2級は外出は出来るし、単純作業ならこなせるけど一般就労は難しいかもねって感じで、3級は2級とそんなに変わらないけど一般就労が出来るかもね。って感じだ。
1級の障害者の方だと見た目や言動で家族や周りから見ても障害者なのね。と判断されやすいので障害者として国からも手厚く援助されたりするんだけど、2級や3級となるとそうもいかない。
見た目も普通だし、下手に言葉を理解してたり、一般の人と同じように育てられた分、社会に出てからお荷物とされてしまい、自分も周りにも迷惑をかけてしまう。そこが自分でも負担になって潰れてしまう人があとを絶たないのではないだろうか?
脳機能の問題だから目に見えないから他人と同じように振る舞いたくても振る舞えないのに周りからは人としてとか社会人としてとか、それっぽい理由こじつけられて一般人と同じことを国からも社会からも身内からも責められている様な気になる。
最初だけははキチンと出来たりするもんで、面接は受かったりして、簡単な作業は出来るから最初は褒められるんだけど、段々と仕事が複雑化してくると理解できなくて周りを苛立たせてしまう要因になる。
それに自己というものが下手に確立している分、自分で主張をしなければならず、私の場合、一般の人と比べて言葉がスラスラでてくる訳でもないのに同じようにしろと言われても無茶があるけど、周りはそれを許してくれない。
軽度の発達障害なんて言われるけど、本人からしたら軽いなんて全く軽くないわけで生きていく上で必要な身の周りのことや生活がままならない訳で、分かることと分からないことが混在して行く中でどうそれを周りに理解してもらうか考えるだけでも一苦労するのだ。
周りが当たり前なことが自分にはできない劣等感で押しつぶされそうになる。
七夕の願い事
もう10日ほど過ぎてしまって、出遅れた感が否めませんが、七夕の時の話をしようと思います。
ある日のこと…
友人と遊びにショッピングセンターに行ったときのことそこには笹の葉につられた短冊が沢山飾ってありました。
友人ときゃっきゃはしゃぎながら順番に他人様の短冊を見ていくと二つの印象的な短冊が目に留まりました。
「人として生きられますように」
「死にませんように」
友人の反応は「思春期の願い事かなあ…」「そんなにお金に困ってるの」と言って笑っていましたが私の受け取り方は違いました。
他人事じゃないと強く感じてしまったのです。
自分が“普通”とは違うという認識、人ではないという感覚、私には痛いほど共感を得てしまったわけなのです。
周りの人たちは皆、当たり前のように“普通”をこなしていますが、その“普通”が理解できなくてもんもんとしてしまったり、理解するのに人の数百倍努力しないといけない人種も世の中潜んでいるわけで、私もその一人なわけで…
“普通”の枠からはみ出してしまった人たちに努力不足や蔑みの目で見るのではなくて、手助けできる世の中になっていったらいいのになあ…とぼんやり思うわけであります。
“普通”とはいったい何なんでしょうか?
普通がわからーーーーーーーーん